Up | 身心學道 | 作成: 2009-10-26 更新: 2009-10-26 |
佛道は、不道を擬するに不得なり、不學を擬するに轉遠なり。 南嶽大慧禪師のいはく、修證はなきにあらず、染汚することえじ。 佛道を學せざれば、すなはち外道闡提等の道に墮在す。このゆゑに、前佛後佛かならず佛道を修行するなり。 佛道を學習するに、しばらくふたつあり。いはゆる心をもて學し、身をもて學するなり。 心をもて學するとは、あらゆる諸心をもて學するなり。その諸心といふは、質多(しった)心、汗栗駄(かりだ)心、矣栗駄(いりだ)心等なり。又、感應道交して、菩提心をおこしてのち、佛祖の大道に歸依し、發菩提心の行李を習學するなり。たとひいまだ眞實の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし佛祖の法をならふべし。 これ發菩提心なり、赤心片片なり、古佛心なり、平常心なり、三界一心なり。 これらの心を放下して學道するあり、拈擧して學道するあり。このとき、思量して學道す、不思量して學道す。あるいは金襴衣を正傳し、金襴衣を稟受す。あるいは汝得吾髓あり、三拜依立而立あり。碓米傳衣する、以心學心なり。 剃髪染衣、すなはち囘心なり、明心なり。踰城し入山する、出一心、入一心なり。山の所入なる、思量箇不思量底なり。世の所捨なる、非思量なり。これを眼睛に團じきたること二三斛、これを業識に弄しきたること千萬端なり。かくのごとく學道するに、有功に賞おのづからきたり、有賞に功いまだいたらざれども、ひそかに佛祖の鼻孔をかりて出氣せしめ、驢馬の脚蹄を拈じて印證せしむる、すなはち萬古の榜樣なり。 しばらく山河大地日月星辰、これ心なり。この正當恁麼時、いかなる保任か現前する。山河大地といふは、山河はたとへば山水なり。大地は此處のみにあらず、山もおほかるべし、大須彌小須彌あり。横に處せるあり、豎に處せるあり。三千界あり、無量國あり。色にかかるあり、空にかかるあり。河もさらにおほかるべし、天河あり、地河あり、四大河あり、無熱池あり。北倶廬州には四阿耨達池あり。海あり、池あり。地はかならずしも土にあらず、土かならずしも地にあらず。土地もあるべし、心地もあるべし、寶地もあるべし。萬般なりといふとも、地なかるべからず、空と地とせる世界もあるべきなり。日月星辰は人天の所見不同あるべし、諸類の所見おなじからず。恁麼なるがゆゑに、一心の所見、これ一齊なるなり。 これらすでに心なり。内なりとやせん、外なりとやせん。來なりとやせん、去なりとやせん。生時は一點を増ずるか、増ぜざるか。死には一塵をさるか、さらざるか。この生死および生死の見、いづれのところにかおかんとかする。向來はただこれ心の一念二念なり。一念二念は一山河大地なり、二山河大地なり。山河大地等、これ有無にあらざれば大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に變ぜず。 かくのごとくの心、みづから學道することを慣習するを、心學道といふと決定信受すべし。この信受、それ大小有無にあらず。いまの知家非家、捨家出家(家、家に非ずと知りて捨家出家す)の學道、それ大小の量にあらず、遠近の量にあらず。鼻祖鼻末にあまる、向上向下にあまる。展事あり、七尺八尺なり。投機あり、爲自爲他なり。恁麼なる、すなはち學道なり。學道は恁麼なるがゆゑに、牆壁瓦礫これ心なり。さらに三界唯心にあらず、法界唯心にあらず、牆壁瓦礫なり。 咸通年前につくり、咸通年後にやぶる、 ![]() 發菩提心は、あるいは生死にしてこれをうることあり、あるいは涅槃にしてこれをうることあり、あるいは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらざれども、發心のところにさへられざるあり。境發にあらず、智發にあらず、菩提心發なり、發菩提心なり。發菩提心は、有にあらず無にあらず、善にあらず惡にあらず、無記にあらず。報地によりて ![]() ![]() ![]() 赤心片片といふは、片片なるはみな赤心なり。一片兩片にあらず、片片なるなり。 荷葉團團團似鏡、菱角尖尖尖似錐(荷葉團團、團なること鏡に似たり、菱角尖尖、尖なること錐に似たり)。 かがみににたりといふとも片片なり、錐ににたりといふとも片片なり。 古佛心といふは、むかし ![]() ときに國師いはく、牆壁瓦礫。 しかあればしるべし、古佛心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古佛心といふにあらず、古佛心それかくのごとく學するなり。 平常心といふは、此界他界といはず、平常心なり。昔日はこのところよりさり、こんにちはこのところよりきたる。さるときは漫天さり、きたるときは盡地きたる。これ平常心なり。平常心この屋裡に開門す、千門萬戸一時開閉なるゆゑに平常なり。いまこの蓋天蓋地は、おぼえざることばのごとし、噴地の一聲のごとし。語等なり、心等なり、法等なり。壽行生滅の刹那に生滅するあれども、最後身よりさきはかつてしらず。しらざれども、發心すれば、かならず菩提の道にすすむなり。すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。すでにあやしむことあり、すなはち平常なり。 身學道といふは、身にて學道するなり。赤肉團の學道なり。身は學道よりきたり、學道よりきたれるは、ともに身なり。盡十方界是箇眞實人體なり、生死去來眞實人體なり。この身體をめぐらして、十惡をはなれ、八戒をたもち、三寶に歸依して捨家出家する、眞實の學道なり。このゆゑに眞實人體といふ。後學かならず自然見の外道に同ずることなかれ。 百丈大智禪師のいはく、若執本 ![]() ![]() ![]() ![]() これら閑家の破具にあらず、學道の積功累 ![]() ![]() しかあるに棄身するところに揚聲止響することあり、捨命するところに斷腸得髓することあり。たとひ威音王よりさきに發足學道すれども、なほこれみづからが兒孫として増長するなり。 盡十方世界といふは、十方面ともに盡界なり。東西南北四維上下を十方といふ。かの表裏縱横の究盡なる時節を思量すべし。思量するといふは、人體はたとひ自他に ![]() ![]() ![]() 恁麼の道理、すなはち盡十方界眞實人體なり。自然天然の邪見をならふべからず。界量にあらざれば廣狹にあらず。盡十方界は八萬四千の説法蘊なり、八萬四千の三昧なり、八萬四千の陀羅尼なり。八萬四千の説法蘊、これ轉法輪なるがゆゑに、法輪の轉處は、亙界なり、亙時なり。方域なきにあらず、眞實人體なり。いまのなんぢ、いまのわれ、盡十方界眞實人體なる人なり。これらを蹉過することなく學道するなり。たとひ三大阿 ![]() ![]() ![]() ![]() 生死去來眞實人體といふは、いはゆる生死は凡夫の流轉なりといへども、大聖の所脱なり。超凡越聖せん、これを眞實體とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれども、究盡するに、面面みな生死なるゆゑに恐怖すべきにあらず。ゆゑいかんとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。生は死を ![]() ![]() 圜悟禪師曰く、生也全機現、死也全機現、 ![]() ![]() この道著、しづかに功夫點 ![]() ![]() 正法眼藏身心學道第四 爾時仁治三年壬寅重陽日在于寶林寺示衆 仁治癸卯仲春初二日書寫 懷弉 |
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